珍しく、澄んだ空気が寒さを呼ぶ夜だった。
 冬の到来にはまだ程遠いが、日中との温度差の違いがそう感じさせるのだろう。
 だが、今夜それを感じ取っている者は少ないに違いない。
 そこかしこで、飽きることなく祝宴が続けられていた。
 今夜は朝日が昇るまで、城中が喜びにざわめいているのだろう。
 最後の戦いに生き残った者の、それは特権だった。
 今宵ビュッデヒュッケ城にいるものは、幾たびもの戦闘を切り抜け、最後まで戦い抜いて勝利を手に入れたのだ。立場や身分に関係なく、今夜だけは誰もがその特権を存分に味わっていた。
 興奮に身を熱くしている者は、外気の冷たさなど関係なく喜びを全身で表わしていた。
 ゲドに近しい者達もその例に漏れず、城に帰還するなり酒場に駆け込んで籠もりきりになり、勝利の美酒を堪能していた。
 その周囲には見知った顔たちも混じり、普段なら目も当てられぬような乱痴気騒ぎを繰り広げていた。互いに酒を浴びせ掛けあう者達、肩を組んで歌いだす男達もいれば、興奮が過ぎて皿や瓶の飛び交う喧嘩が起き、勢い余って服を脱ぎだす者まで出る。
 アイラはそんな大人たちの痴態には目もくれず、一心にソーダ水を飲み続けていた。ジャックはジョーカーに無理やり飲まされた一杯の酒で沈没し、テーブルに突っ伏して熟睡していた。エースは泥酔したジョーカーに羽交い絞めにされ、口に蒸留酒を注ぎ込まれて半死の態だったが、いずれ頃合いを見てクイーンが救出するだろう。
 ゲドも付き合いでその場にいたのだが、酔ったデュークに絡まれ始めたのをエレーンに押し付けて、早々に切り上げて自室に戻ってきてしまっていた。

 ビュッデヒュッケ城の二階にある私室は打って変わって静寂に包まれていた。
 時折、すきま風に乗って一階の盛況振りを伝えてくるほかは、ゲド自身が立てる音が響くのみである。
 数本の蝋燭に火を点したのみで薄暗い部屋の窓辺に立ち、ゲドは腕組みをして窓の向こうに見える夜空を見遣っていた。
 今夜は満月だった。見つめると眩しいほどの強い月光が下界に降り注ぎ、その一部はゲドの部屋の窓辺にも注がれている。
 沈思していたゲドは、外の廊下を歩いてくる微かな足音を聞きつけた。間もなく足音はゲドの部屋の前で止まり、外から耳慣れた声が掛けられた。
「ゲド、いるかい?済まないけど、ドアを開けておくれ」
 クイーンの声だった。ゲドは腕組みを解いて、女の言うとおりにそちらに歩いていき、扉を開けてやった。
 開いた扉の向こうでは、右手に酒瓶、左手に肉の盛られた皿を手にしたクイーンが立ってこちらを見、婉然と笑いかけていた。
「二人で仕切りなおしといこうじゃないか?」
 予想したとおりの言葉に、ゲドは無言で頷きを返して、クイーンを部屋へと招き入れた。
 
 ――実はこの訪れを待っていたのだと言ったら、クイーンは何と言うのだろうか?



 蝋燭の明かりが細く揺れる薄暗い室内に入った途端、クイーンが身震いをしているのにゲドは気付いた。人の熱気で暑いほどだった酒場と違い、ゲドの部屋は外気と同じく冷え込んでいる。その気温差に体が付いていかなかったのだろう。
「……寒いか?」
「少しね。でも大丈夫だよ。酔いを醒ますのに、丁度いい」
 ゲドは、小さな円卓に酒瓶とつまみの皿を置いているクイーンの手元をちらと見やって呟いた。
「まだ飲むつもりなのに、酔いが醒めるのか」
「馬鹿騒ぎの熱は収まるだろう?これからは、あんたと二人でゆっくり酔いを味わうのさ」
 そう言いながら、クイーンは二人だけの酒宴の用意をしている。
 ゲドはクイーンの言い分には納得できず、部屋に据えつけられた暖炉に目を遣った。クイーンが気付いていないうちに手早く薪に火を付ける。
 物音に気付いてクイーンが振り向き、ゲドのしようとしている事を察して微笑したようだった。
「飲めば体も温まるから平気だよ」
「……俺も寒いんだ」
 見え透いた嘘だったが、クイーンは見逃してくれたらしく、低く笑うと、持ち込んできた酒を手にとって示した。
「ゲド、ジョーカーからこれを預かってきた」
「ジョーカーから?」
「ワンって奴の預かりもので、祝い酒だって伝えてくれって。知り合いかい?」
 暖炉に火を起こしたゲドは腰を上げてクイーンを振り返り、頷いた。
「古い知り合いだ」
「そう。かなりの年代物だね、これは。御相伴に預かってもいいかい」
「ああ」
「折角だから、暖炉の側で飲もうか。その方が暖かいしね」
 クイーンはそう言うと、テーブルに広げていた酒瓶や杯などを床に下ろして揃え直した。
 そして酒の封を切り、中の液体を二つの杯に注ぐ。うっすらと黄金色に色づいて見えたのは、銘酒ゆえか暖炉の火が移ったせいかなのかは判然としなかったが、クイーンは満足げにゲドに笑いかけた。
 クイーンと酒を挟んで向かいの床に腰を下ろしたゲドはクイーンに杯を手渡され、二人で杯を合わせた。
「お互いの悪運の強さに乾杯、というところかな」
「まあ、そんなところだ」
 互いの生還を祝い、杯に口を付ける。ほろ酔いの喉を冷たく通り抜けた酒の感触が意外なほど心地よい。それはクイーンも同様らしく、酒を一気に飲み干してしまっていた。
「過ぎると明日に残るぞ」
「今夜ぐらいは見逃しておくれよ」
 クイーンは手酌で酒を注ぎ、再び液体に唇を浸した。
 ゲドは一杯で杯を置き、クイーンが持ってきたつまみに手を出す。
 二人のすぐ側では暖炉で小さな火が踊り、クイーンの整った横顔を赤く照らし出している。静寂の中で時折、階下の賑わいが微かに聴こえる他は、薪がはぜる音しか聴こえてこなかった。
 互いに交わす言葉も少なく、ゲドとクイーンは差し向かいで酒を酌み交わしていた。
 クイーンは微かな笑みを口元に刻んだまま、時折火照った頬に手をあてて、すぐ向かいにいるゲドに目線を投げかけてきていた。そんなクイーンの仕草は酒のせいなのか、普段よりも艶を帯びて色香が漂っていた。
「悪くないね、こんなのも」
 微笑と共に呟いたクイーンは、また杯の酒を空けている。再び酒瓶に手を伸ばしたが、素早くゲドは女から酒瓶を奪い取った。
「もう、これで止めておけ。酒場にいた時も、相当飲んでいただろう」
 ゲドは眉根を寄せて諭したが、クイーンは不満げだった。譲歩して半分だけ杯に酒を注いでやった後、ゲドは言葉を継いだ。
「飲みたければ明日でも飲める。……二日酔いになっていなければ、の話だが」
「……分かったよ。明日もゲドが付き合ってくれるなら、今日はもう止めにしておくさ」
 明日も、の言葉にゲドが思わず渋い顔をしたのがおかしかったらしく、クイーンは低く笑っている。
「冗談さ。確かに、明日は二日酔いでそれどころじゃないだろうね。でも今夜は、ゲドと差し向かいでゆっくりやりたかったんだ……生きて帰ってこれたら、そうしようと思っていた。だから、ちょっとは許してくれてもいいだろう?」
 クイーンはゲドと視線を絡ませて、目を細めて微笑した。
 元より、うるさく酒を止めるつもりはなかった。一応の忠告を受け入れた上での言い分にゲドは頷きを返し、杯を手に取ると、クイーンは瓶を手にとって酒を注いでくれた。
 連続の戦闘と、崩壊する遺跡からの脱出で相当体力を消耗していた。酔いと疲れがない交ぜになり、澱のように体の奥に沈殿しているのが自分で分かっていた。だが、まだ横になる気にはなれなかった。
 ちろちろと燃える暖炉の火に似たものが体に宿って、男の体を微熱で火照らせている。酔いとは違うその正体を薄々自覚しながら、ゲドはそれを紛らわせるために汁の滴る薄切り肉を手でつまんだ。
 ゲドはその味付けが気に入って、先ほどから肉を直に指でつまんで、そのまま口元に持っていっている。おかげで指は肉の脂と汁で汚れてしまっていたが、さほど気にすることなく肉をつまんでいた。
 目を酔いに潤ませて、クイーンがその所作をじっと見つめて問い掛けてきたのは、その時だった。
「それ、美味いかい?」
「悪くない」
「ふうん……」
 クイーンは呟くと、おもむろに手を伸ばしてゲドの手首を掴み、引き寄せて男がつまんでいた肉と共に、その指もぱくりと口に含んでしまった。
 瞬間に、女の口腔内の生暖かい感触が指先に伝わる。咄嗟に腕を引こうとしたが、クイーンにしっかりと手首を抑えられて動かすことが出来ず、ゲドは顔を顰めてクイーンの仕草を見守った。
 それ自体が生き物のような器用な動きで、女の舌が丹念に指についた脂を舐め取っているのを、ゲドは否応なしに感じ取らされていた。
 クイーンは、あからさまにこちらを煽ってきている。
 つまり、ゲドの情動は女に見透かされているということだ。
「……」
 しつこいほど丁寧に脂を舐め取った後、クイーンはやっと口を離し、手首を開放した。
 むっつりと睨んでくるゲドの視線もどこ吹く風で、クイーンはこれみよがしに唇を赤い舌で舐めて見せる。
「ごちそうさま。確かに悪くないね」
「……」
「ついでに口の汚れも取ってやろうか」
 クイーンは含み笑いをして軽く身を乗り出し、男に顔を近づけた。
 ――ゲドから先に唇を重ねたのは、いいように女にあしらわれている腹立たしさと……やはり、体に宿る火のせいだった。
 体に燻る昂揚感の残骸のせいか、自分の欲情に歯止めをかける理性が上手く働かない。
 たまにはそれも良いと、別の感情が理性に囁きかけているようだった。
 クイーンの唇のやんわりとした感触がゲドにまとわりつき、そこから同じ酒の匂いがしていた。
 長い口付けの合間に僅かに唇を離し、クイーンは低く囁きかけた。
「……少しは誘われてくれたのかい?」
「……好きに解釈すればいい」
「ふふ……」
 笑いをこぼす唇を己のそれで塞いで、ゲドは女と床に倒れ込んだ。
 視界の端に、ちかちかと瞬く赤い火が映り、それがゲドの酔いと昂揚を煽るようだった。
 ここなら寒くあるまい、と半分独り言に呟くと、クイーンが
「おや、寒さを気にするような何をしようっていうのかね」
 と返してくる。
 そんなことを言わせる気かと半ば呆れつつ、猫がじゃれつくような女の戯言を封印する為に、クイーンのほっそりとした体を両腕に抱きこんだ。
 仄かに鼻腔をくすぐる女の髪の匂いを感じて、ゲドは目を閉じた。
 瞼の裏に映る炎の揺らめきが、体の奥に沈む熱を呼び覚ます。
 今だけは、その熱に浮かされるのも良いと思えたのは、やはり酔いのせいなのかと思い、そこでまともな思考は途切れたのだった。



 ・・・NEXT?・・・











「熾火」
幻水のページへ戻る